はじめまして。よしきです。
プロフィールを読んでくれてありがとうございます。
簡単に僕の自己紹介させてください。
僕は現在、昼間は会社員として働きながら副業でビジネスに取り組んでいる31歳です。
この副業は、1日1時間程度の作業で月30万円以上の利益を出しており、調子が良いときは会社の給料を超えて50万円近く稼ぐこともあります。
証拠写真です。
特に注目してほしいのは、この稼ぎ方が非常に効率的だという点です。
SNSを頻繁に更新したり、大量の記事を量産したりする必要はなく、顔出しや本名を公開せず、パソコン1台で完結する仕組みを作り上げました。
誰にも知られずに収入を増やしたいと考えている方にとって、参考になる部分があるかもしれません。
僕が主にやっていることは、ココナラというプラットフォームで自分の商品を出品することです。
商品は5万円から50万円の価格帯で定期的に売れ、時には100万円の商品が売れることもあります。(外注を活用しているため、全額が利益というわけではありませんが、手離れの良い仕組みです。)
2025年には、この副業収入を安定させて会社員を卒業することを目指しています。
このブログで発信する情報を通じて、
同じように「会社の収入以外で安定した稼ぎを作りたい」と考えている方や、
「副業を始めたいけど何から手をつければ良いかわからない」という方の参考になれば幸いです。
もしかしたら「よしきってすごい人なんだな」と思われた方もいるかもしれませんが、そんなことは全くありません。
僕は大学に入学すらしていませんし、卒業した高校の偏差値はたったの42。
社会人になってからも仕事が続かず、5回も転職を繰り返しました。
「継続力」というものがなく、何をやっても途中で投げ出してしまうような性格です。
ビジネスに挑戦しても、何度も挫折しては戦線離脱。
それでも諦めきれず、何度も挑戦を繰り返し、ようやく稼げるようになりました。
正直、僕は特別な才能やスキルを持っているわけではありません。
まさに「普通の人間」です。
だからこそ、僕が辿ってきたこのストーリーを読んでいただき、「こんな普通のやつでも稼げるんだ」と感じていただけたら嬉しいです。
この物語には、誰にでも再現できる手法や考え方が詰まっています。
特別な学歴も才能も必要ありません。
僕が成功した方法は、あなたにもきっと活用できるはずです。
ぜひ、このストーリーから「稼ぐことは自分にも可能だ」という希望を持ってもらえたらと思います。
金持ちに囲まれていた小学校時代
時は小学生時代に戻ります。
僕はひとりっ子で、親が母親しかいないいわゆる母子家庭の家でした。
母子家庭と聞くと、お金がない家なのかな?と思う人もいると思いますが実は、僕の親は地元でスナックを経営していて、普通の家庭よりお金がありました。
なので、普通に週5日外食が当たり前。小学生の癖に生意気にも、ふぐのコースとか焼肉とか食べてました。
おもちゃや欲しいものとかも基本的には買ってもらってました。
当時遊戯王が流行っていたんですが、友達は1パックずつ買ってる側で、僕はBox買いしてました。
一般的な家庭からみると、割とお金を持っている家庭だったと思います。
でも、自分の家は金持ちだ、という感覚は全くなかったんですよね
なぜなら、親戚のいとこの家は僕の家とは比較にならないお金持ちだったからです。
業種は伏せますが、某チェーン店のオーナー一家です。
いとこの家はお金もちすぎて、地元ではちょっとした有名人です。
最寄りの駅からタクシーにのって、「〇〇さんの家に行ってください。」と言ったら着くレベルです。
家はとんでもなく広くて、部屋を数える気にもなりません。
リビングは100畳はあるし
テレビも100インチです。
中庭には鯉が泳いでいます。
僕は30年くらい生きてますが、今までいとこの家より
でかい家、すごい家に行ったことがありません。
あと、母方のおばあちゃんも地元に土地を持っていたり
名古屋にビルを持っていたりする資産家です。
おばあちゃんはもう亡くなってしまったんですが
よく、お小遣いをくれたり
僕が好きだったファミリーレストランのデニーズに連れて行ってくれたり
可愛がってくれました。
幼少期から、おばあちゃんの家もお金もちで、親戚みんなお金持ちだったので
家にお金がある余裕のある生活は当たり前でした。
自分の家や親戚がお金を持っていて、普通ではないと気づくのは
小学校に入ってからでした。
学校は公立だったので、当然貧乏な同級生もいました。
家でジュースも飲めない(ジュースを飲めるのは誕生日とか特別な日だけ)
ゲームは基本買ってもらえない
お年玉は500円、1000円が当たり前
という話を聞いて、自分の家は恵まれているんだな、と理解しました。
よく、小学校の友達は
「よしきは金もちだよなー、いいなー」
とか言われている金持ちキャラでした。
ただ、僕自身はすごくもなんともないので金持ちだと言われて嬉しい、という感覚もありませんでした。
親や親戚がお金持ちだったので、自分も将来は漠然とお金持ちになるんだろうな。と考えていました。
勉強で挫折した中学生時代
僕が「お金持ちになりたい」と初めて強く思ったのは中学時代のことです。
親や親戚が会社を経営していたこともあり、経営者という道が頭をよぎりました。
しかし、当時の僕には知識も経験も人脈も何もない。
「自分には経営なんて無理だな……。」
そう考えた僕は、別の道を模索し始めました。
中学2年生になると、クラスで進路の話題が頻繁に出るようになりました。
僕の通っていた中学校は、地元では勉強意識が高い方で、塾に通う生徒も多かったです。
その流れに乗り、僕も家の近くの塾に通うことにしました。
塾に入ると、先生からこう言われたのを覚えています。
「今勉強するのは、いい高校に進学するためや。
いい高校に行けば、いい大学に進学できる。
そして大手企業に就職したらお金持ちになれる。そのために偏差値を上げよう。」
なるほど、つまりお金持ちになるには「いい企業に入る」のが近道なのか。
そう思った僕は、「じゃあ、勉強するしかないな」と覚悟を決め、中学2年生から勉強に本腰を入れることにしました。
偏差値の高い高校を目指すため、僕は塾に通い、より一層勉強に励むようになりました。
でも、現実は甘くありませんでした。
僕はとにかく勉強が苦手だったんです。それも、絶望的なレベルで。
それが一層はっきりしたのは、中学3年の夏でした。
塾で高校入試に向けた模試がありました。
この模試は、今後の志望校を決める重要な指標となるテストで、みんな必死になって勉強していました。
当然、僕もその一人です。
模試に向けて、僕はできる限りの努力をしました。
塾には週5日通い、授業が終わった後も自習室で遅くまで勉強。
分からないところがあれば先生に何度も質問し、宿題を増やしてもらいながら解き続けました。
「これだけやったんだから、きっと良い結果が出るはずだ。」
自信とは言えないまでも、努力した分の手応えを感じていました。
だからこそ、テスト結果が返却される日を、どこか楽しみにしていたのです。
エアコンの効いた涼しい塾の教室で、先生が一人ひとりにテストを返却していきます。
「〇〇はいい感じだな。このまま志望校を変えずに進めよう。」
「△△はもう少しレベルを上げても良さそうだ。親と相談してみなさい。」
次々と友達にテストが返され、彼らはみんな褒められています。
塾で見た彼らの努力を思い出しながら、僕は心の中で思いました。
「みんな勉強してたし、当然か。俺もめっちゃ頑張ったし、良い結果が出るだろう。」
淡い期待とともに、先生が僕の名前を呼ぶのを待ちました。
そして、僕のテストが返却されます。
先生は険しい顔で、僕の顔とテストの結果を交互に見ながら言います。
「よしき、お前は志望校を変えようか。
今のままでは受かるのは厳しい」
すぐにテストの結果を確認すると
志望校はD判定でした。(ほとんど受からない成績)
「…えっ?」
あまりに成績が悪く、言葉が出ません。
胸がぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われ、悔しさと恥ずかしさで顔が熱くなりました。
教室で泣きそうになりましたが、先生や友達の前で涙を見せるわけにはいきません。
だから、急いでトイレに駆け込み、声を殺して泣きました。
「あんなに頑張ったのに、どうしてダメなんだ…」
自分の頭の悪さに打ちのめされ、目の前が真っ暗になったような感覚に陥りました。
さらに、偏差値の高い高校に進めないという現実は、いい大学に行き、大手企業に就職して裕福な生活を手に入れるという夢を、音を立てて崩していきました。
大手企業で成功する未来は、もう僕の手の届かない場所に行ってしまったのです。
そして結局、望んでいなかった偏差値42の学校へ進むことが決まったのです。
将来を模索する高校時代
高校に入学してからも、僕は「どうすればお金持ちになれるのか」を模索していました。
しかし、通っていた高校では、いい大学に進学するのは難しい。
いい大学に行けなければ、大手企業に入るのも不可能。
「じゃあ、他にどんな方法があるんだろう?」
そう考えながらも、なかなか答えは見つかりませんでした。
地頭も良いとは言えず、これといった特技もない僕。
正直、人より優れている部分が何一つ思い浮かびませんでした(自分で言ってて悲しいですが、本当にそうでした)。
ただ、身体を動かすのは嫌いではなかったし、運動神経は悪い方ではありませんでした。
「身体を動かして稼げる仕事ってないのかな?」
そんなふうに考える中で、小学校6年生の頃から地元のダンス教室に通っていたことを思い出しました。
「もしかして、プロのダンサーになれば稼げるんじゃないか?」
中学時代は勉強中心の生活だったので、ダンス教室に通う頻度も減っていましたが、高校に入ると再び少しずつ足を運ぶようになりました。
そこで目にしたのは、ダンスの先生たちの華やかな姿でした。
特に憧れたのは、いつも教えてくれる22歳くらいの若い先生。
身につけているものはブランド品ばかりで、よくクラブで遊んでいるという話も聞かされました。
「プロのダンサーって、こんなに稼げるんだ……。」
そう思うと同時に、「俺でもなれるんじゃないか?」という希望が湧いてきました。
しかし、プロダンサーという仕事を調べ、実際に関わるうちに、現実の厳しさを知ることになります。
プロダンサーの収入源は主に、大会の賞金とスクールの給料です。
全国大会などの大きな舞台で優勝すればまとまったお金を得ることができますが、地方大会の賞金は数万円程度。
さらに、プロのダンサーは多くの場合チームで活動するため、賞金を複数人で分配する必要があります。
例えば、賞金100万円の大会で優勝しても、5人チームなら1人当たりの取り分は20万円程度。
それだけでは生活できないので、大半のダンサーはダンススクールで教える仕事をして生計を立てます。
しかし、高額な給料を得られるのは、全国レベルや世界大会で結果を出せるような限られた人たちだけです。
僕が憧れていた先生は、まさにその「限られた人たち」の一人でした。
世界大会にも出場するような実力派で、ダンス業界でも名の知れた存在だったのです。
ただ、そんなトップダンサーの先生ですら、将来への不安を口にしていました。
「ダンサーの寿命は30代、長くても40代。」
激しい動きを必要とするダンサーにとって、生涯現役で活躍するのは難しい世界です。
現役を引退した後、ダンス一筋で生きてきた人が次にどんな道を歩むのか――そのビジョンが描けないという不安が、先生の言葉の端々に滲んでいました。
現役として活躍できる時間は短く、大金を稼げるのは一部の限られた人だけ。
そんなダンス業界の現実を知り、僕は「プロのダンサー」という道を諦めることにしました。
ダンスが好きだっただけに、苦渋の決断ではありましたが、「この世界で稼ぐのは無理だ」と心底理解した瞬間でもありました。
ダンスを通して得たのは、華やかな夢と、それを覆す厳しい現実の両方だったのです。
高校時代の僕は、ダンサーの夢を諦めた後、バイトに明け暮れる日々を送っていました。
バイトをする理由は二つ。
一つは単純に「遊ぶためのお金が欲しい」ということ。
もう一つは、「いろんな仕事を経験した方が将来お金持ちになるために役立つかもしれない」と思ったからです。
その考えのもと、とにかく色んなバイトに挑戦しました。
回らないお寿司屋さんの仕込みの仕事、カラオケ店員、工場作業、たこ焼き屋、ホテルのウェイター――。
その中でも、特に印象に残っているのがプラスチック製造工場での仕事でした。
この工場での仕事は単純作業の繰り返し。
携帯用シャンプーのプラスチック容器に傷がないかを確認し、傷のあるものとないものを仕分ける作業です。
最初は「楽な仕事だな」と思いました。
ベルトコンベアから流れてくるボトルをただ目で確認するだけ。
しかし、これが想像以上にきつい。
毎日何時間もプラスチックばかり見ていると、目が痛くなり、途中から傷の有無が分からなくなってくるんです。
それがバレると、すぐに工場長が飛んできます。
「これは傷あるだろうが!どこ見てんねん!!」
怒鳴られるたびに、僕は心臓が縮み上がりました。
基本的に大人に怒られることに慣れていなかったので、耐性ゼロ。
怒鳴られるたびに萎縮してしまい、ますます作業がうまくいかなくなる悪循環に陥っていました。
さらに追い打ちをかけたのが、工場内の寒さです。
機械の温度を下げるため、工場内は凍えるような冷気に包まれていました。
上着を着ることは集中力を欠くという理由で禁止されており、薄着のまま過ごさなければなりません。
寒さで手足がかじかみ、集中力は完全に奪われていき結局、体調を崩してしまいました。
それを工場長に伝えると返ってきたのは冷たい一言でした。
「体調管理ができないお前が悪い。工場に来るか辞めるか選べ。」
僕はその言葉を聞いた瞬間、心の中でこう叫びました。
「こんなブラックバイト、こっちから辞めてやる!」
こうして、プラスチック工場のバイトも短期間で辞めることになりました。
このバイト経験を通して、僕はお金の大切さを身に染みて学ぶことになりました。
子どもの頃、お年玉で何の苦労もなく手にしていた1万円。
でも、今ではそれを稼ぐために工場で13時間以上働かなければならない。
「お金を稼ぐって、こんなに大変なんだ……。」
そう思うと同時に、不安が押し寄せてきました。
「こんな調子で、俺は本当に金持ちになれるんだろうか?」
過酷なバイト経験は、僕に「お金を稼ぐことの難しさ」と「自分の将来への不安」を突きつけました。
ただ、惨めな思いをしたこの経験が、後々の僕にとって大きな糧になったのも事実です。
この時、初めて「お金の重み」を真剣に考えるきっかけを得たのです。
プロのボートレーサーを目指す
そして、高校を卒業する年の夏の時期。
やっとお金持ちになる手段が見つかりました、それがボートレーサーでした。
なぜボートレーサーになろうと思ったのか?
きっかけは、僕が進路に迷っていた時
ギャンブル好きの叔父さんが声をかけてくれたことから始まります。
「よしきは身体小さいからレーサーに向いてると思うよ」
と言われました。
「レーサーってなんやねん、F1とかかな?」
全然理解できてない僕に、叔父さんはしびれを切らしたのか
「じゃあ直接見にいくか!」
と言われて、大阪の住之江のレース場に連れて行ってもらいました。
初めてレースを生で見たんですが、大迫力で圧倒されました。
目の前数mでボートとボートがひしめき合い、我先にとゴールを目指している姿に感動したんですね
一瞬で虜になりました。
あんな風に俺もレースしてみたい。
ボートレーサーについて調べてみると、知れば知るほどかっこいい仕事でした。
ボートレーサーは、全国各地にあるレース場を飛び回る仕事です。
そして、一番大きい大会の優勝賞金はなんと1億円。
年間2億円稼ぐレーサーもいます。
しかも、ボートレーサーの平均年収は1700万円(当時の金額)です。
一握りの選手が稼げているわけではなく、生涯現役で続けてる人もいます。
しかも、運動能力が特別高い人がなるわけではないと知りました。
身長が低くて体重が軽い人であれば、基本的になれます。
学歴も頭のよさも必要ありません。
僕は幸い、背も低く体重も軽いです。
これは僕にある数少ない才能だと直感したんですよね。
絶対にレーサーになる!
と誓いました。
ボートレーサーの養成所に入るのに有利な予備校があると知り、
ボートレーサーの試験に集中するために予備校代、生活費を援助してもらうように
親に頼み込みました。
「よしきがそこまで言うなら」と許してくれました。
そして僕は、ボートレーサーの学校に入るための予備校に通い始めます。
その学校は福岡にしかないため、僕は単身で福岡で一人暮らしを始めました。
この予備校に通わなくても、地元にいながら試験対策してる友達もいました。
ですが、僕は福岡で自分を追い込みたいと思いました。
甘えを捨て、試験に没頭しないと受からないと思っていました。
このまま高校を卒業して、大学に行ったら普通の会社員として世間に出ることになります。
普通の会社員になってもお金持ちになることはない、意地でも普通の会社員にはなりたくなかった。
僕にはなんの一芸もないし、ボートレーサーに賭けるしかなかった。
ボートレーサー試験は毎年1700人近くが受験して、
合格するのは40人前後、合格率はたった2%の超難関です。
合格するために、必死にからだを鍛えました。
勉強も必要だったので、1日8時間以上机に齧り付きました。
勉強は苦手でしたが、そんなことは言ってられません。
テキストはボロボロになるまで使い込み、最後は真っ二つになってました。
それでもお金持ちになるためだ、と言い聞かせて頑張りました。
そして半年後、試験の日。
「俺以上に頑張ったやついないだろ、絶対合格するわ」
僕は自信に満ちていました。
速攻で合格するだろう、そう思っていたんです。
ですが、その期待は見事に裏切られ、
1回目の試験は一次試験で落とされることになります。
高校受験以来の挫折でした。
でも、僕は諦めませんでした。
試験に落ちたら、また半年後にある試験まで勉強とトレーニングです。
それを4年間繰り返すことになります。
その頃、僕の友達は大学生活を満喫していました。
たまに友達から連絡がきたと思ったら
「よしき何してんのー?ボートレーサーの試験まだやってんの?もう諦めーや(笑)」
こんなLINEが届いたこともあります。
僕はむかつきました。
「大学でぬくぬくと遊んでるお前よりかは俺は100倍は頑張っている!
今はいい、数年後に見返してやる!」
将来金持ちになるために今頑張るんだ!
と自分を奮い立たせます!
ですが、唯一嫌だったのが親戚が集まる食事会です。
年末年始は実家に帰り、おばあちゃんの家に親戚一同が集まります。
その時に、いとこのお母さんに
「よしきは最近何してんの?大学生やったけ?」
と聞かれ
「いや、ボートの試験受けるねん今勉強中。」
「あっ、そうなんや・・・頑張って」
初めは応援してくれていた親戚も、
試験を2回、3回と繰り返し落ちていく僕をみて、
だんだん僕に腫れ物を扱うように接してきます。
僕は世間でいうと、浪人生です。
しかも大学の浪人だったらまだ理解があるかと思いますが
僕はボートレーサー予備生というマイナーな浪人生です。
しかも、何年も浪人するなんて医学部くらいしか聞いたことがありません。
医者とボートレーサーでは、世間の認知は天と地でした。
誰にも理解されることがない浪人生という自分がすごく嫌でした。
「ダサい。カッコ悪い。」
「でも俺はこんなところで終わる人間じゃない、絶対に成功してやる」
その一心でした。
ですが、4年間試験を受けても一向に合格することはありませんでした
そして、4年目にようやく最終選考まで進むことができました。
最終選考の時点で、1700人中60人まで振るい落とされています。
ここからレーサー養成所に受かる確率は2分の1です。
「ようやくここまできた。」
この頃の僕は4年間の激しい筋トレと減量の影響でガリガリでした。
ボートレーサーを目指すのは4年間で終わりにすると親にも伝えています。
つまり、僕にとってボートレーサーになる最後のチャンスです。
そして、最終審査結果を記した封筒が我が家に届きました。
12月の冬の寒い日でした。
その日はお父さん、お母さん、僕。
家族みんなで試験結果の封筒を家で待ち構えていました。
郵便バイクの音が家の前を通り過ぎるのが聞こえた瞬間、心臓が早鐘のように打ち始めました。
急いでポストに駆け寄ると、「ボートレース振興会より」と書かれた封筒が目に飛び込んできました。
まるでその封筒が僕の運命を握っているように思え、震える手でそっとそれを取り出しました。
親と一緒に開けると決めていたので、足早に家へ戻ると、リビングには家族全員がそろい、なんとも言えない緊張感がその場を支配していました。
僕は視線を感じながら、震える指先で慎重に封筒を開きました。
封を切る「ビリッ」という音がやけに大きく響いた気がします。
封筒の中から出てきたのは、たった一枚の紙。
その中央には無情にも「不合格」とだけ記されていました。
視界がぼやけました。耳鳴りがして、何も聞こえなくなりました。
家族は何も言いません。僕を静かに見つめるだけでした。
その視線が痛くて、苦しくて、僕は親の顔を見ることすらできませんでした。
気づけば、場の空気に耐えきれず、家を飛び出していました。
しかし、どこへ行くあてもなく、マンションの共用階段に座り込みました。
全身の力が抜けて、膝を抱え込みながら涙が止まらなくなりました。
家を出る時点で泣いていたので、親には気づかれていたでしょう。
それでも、目の前で泣くことだけはできなかった。プライドが、それを許しませんでした。
どれだけ泣いていたのか分かりません。
気がつくと、涙でぐしゃぐしゃになった封筒を握りしめながら、重い足取りで家に戻っていました。
4年間、全てを注いで努力してきた僕の夢は、たった一枚の紙によって無情にも打ち砕かれました。
試験は30歳まで受けられると知っていましたが、再挑戦することは選びませんでした。
もし挑戦を続けて合格できなかったら――その先に待っているのは、想像もしたくないほど厳しい現実だと思ったからです。
試験に挑むには自由の効くアルバイトしかできず、正社員になる道は閉ざされる。
しかも試験を受け続けるほど合格が難しくなるという噂もあり、30歳まで挑戦を続ける人はほとんどいないそうです。
仮に失敗すれば、アルバイト経験しかない高卒30歳。そんな状況でどう生きていけるのか。
それを想像するだけで背筋が凍りました。
未練がないわけではありませんでした。
でも、僕はここで夢を断ち切る決断をしました。
こうして、僕の人生最大の挑戦は、静かに幕を閉じました。
試験に落ちてから、ようやく気づきました。
「もし試験に落ちるくらいなら、大学に行っておけばよかった」と。
ボートレーサー試験は大学に通いながらでも受けることが可能でした。
それなのに、自分のプライドに負け、「大学なんて行かなくてもいい」とかっこつけて選ばなかった過去の自分を、心底呪いました。
もし大学に進学していれば、試験に失敗したとしても、その後の進路はもっと柔軟だったはずです。
受からなかった時のために備え、自由に会社を選べる道が残されていたかもしれません。
しかし、高卒という現実は、圧倒的に仕事の選択肢を狭めます。
そして、僕には何も残りませんでした。
結果として出来上がったのは――
高卒で、職歴もない、22歳でした。
就職の求人サイトを開いても、目に入るのはアルバイトや契約社員の募集ばかり。
正社員の枠はほとんどなく、たまに見つけても「高卒不可」の文字が冷たく突き刺さります。
周りの同世代は、大学で勉強しながら将来の夢を追いかけたり、企業でキャリアを積み始めたりしている中、僕は履歴書の空白をどう埋めるかに頭を抱えるだけの日々。
家族や友人の前で「これからどうするの?」と聞かれるたびに、言葉を濁し、自分の無力さを噛みしめるばかりでした。
気づけば、自分の中にあるのは後悔と焦りだけ。
その時、初めて知りました――
「何も持たない22歳」という現実が、これほど重く苦しいものだということを。
“派遣さん”と呼ばれる派遣社員
試験が終わり、解放感に浸った僕は、しばらく友達と遊ぶ日々を過ごしました。
高校を卒業してからほとんど遊ぶ余裕がなかったので、取り戻せなかった青春を埋めるように、全力で遊びました。
しかし、そんな生活も長くは続きません。
遊び疲れた心に「このままじゃいけない」という焦りが芽生え、仕方なく就職活動を始めることにしました。
お金持ちになる夢はまだ捨てきれませんでしたが、まずは働き始めないと話にならない。
求人サイトを片っ端から調べ、気になる仕事に次々と応募しました。
結果、半年の間に4つの職場を渡り歩くことになります。
どの職場も長続きせず、少しでも不満を感じるとすぐに辞めてしまいました。
「なんかこの会社、合わないな」とか、「上司が苦手だな」といった理由で、転職を繰り返していました。
続けることが苦手な自分の性格が、大人になっても変わらなかったのです。
そんな中、ようやく安定して働けそうな職場に出会いました。
それは、大手音楽会社での受付事務の仕事です。
正社員ではなく派遣社員の立場でしたが、給料も休日も条件が良く、「これなら続けられる」と思い入社しました。
実際の仕事は多岐にわたりましたが、特別忙しいわけではなく、ゆっくり作業をしても怒られることはありませんでした。
空いた時間には会社のPCでネットサーフィンをする余裕すらあるような、緩い職場環境です。
多くの人にとっては「最高の仕事だ」と感じるかもしれません。
でも、僕にはそう思えませんでした。
達成感ややりがいを感じられない仕事は、ただの苦痛でした。
僕には夢がありました。
世間に影響を与え、大金を稼ぎ、自分の価値を証明するような生活を手に入れること。
でも、今の仕事はその夢とはかけ離れていました。
事務の仕事は、地味で目立たず、稼げる額も限られています。
例えば、僕の担当する業務の一つに、音楽レッスンスクールの運営がありました。
有名な音楽家の先生たちのスケジュールを管理し、新幹線やホテルの手配をする仕事がメインです。
しかし、先生たちからの要求はわがままそのものでした。
「新幹線は窓際じゃないと嫌だから」「このホテル以外は泊まりたくない」
「予定を変更したからチケットを取り直して」といった要望が次々に舞い込みます。
僕が連絡を取っていた先生は常時15人以上。
毎日、メールや電話で対応するだけで一日が終わってしまいます。
「めんどくせぇ……席なんてどこでもいいだろ。自分で取れよ」と思いながらも、仕事なので従うしかありませんでした。
毎日繰り返される単調で地味な仕事。
達成感もなければ、夢も感じられない日々。
「この仕事をしている自分は、本当に価値のある存在なのか?」と、自分自身に疑問を抱くようになりました。
誰もいない真っ白な壁に囲まれた事務所で、いつものように机に向かって作業をしている時、ふと手が止まりました。
「あれ?これが俺の人生だったっけ?」
胸の奥から湧き上がる違和感に、目をそらすことができませんでした。
本来なら――僕はボートレーサーになっていて、全国を飛び回り、輝かしい舞台の上で戦っているはずだった。
でも、現実の僕はどうだろう。
顔も知らない人の新幹線のチケットを手配し、誰でもできる仕事をこなす毎日。
「これが俺の望んだ未来なのか?」
「違う、こんな人生を歩むつもりじゃなかった。」
夢見ていたのは、スポットライトを浴びながら全国を駆け巡る人生だ。
プロのスポーツ選手として活躍し、大金を稼ぎ、自分の存在価値を証明できるはずだった。
しかし、現実はどうだ。
僕がしているのは、他人のスケジュールを調整する、ただのマネージャー的な仕事。
「これは誰にでもできる仕事だ。俺じゃなくてもいい。いや、むしろ俺がやる必要なんてない仕事だ。」
そう思った瞬間、胸が締め付けられるように苦しくなりました。
理想と現実のギャップが、まるで両肩に重くのしかかる鉄の鎖のようでした。
「ここじゃない。俺の居場所は、こんなところじゃない。」
その時点で僕は23歳。世間的にはもう立派な大人とみなされる年齢です。
「早く何とかしなければ……」そんな焦燥感だけが頭の中を駆け巡りました。
それに比べて、同じ時期にボートレーサーを目指していた友達はどうだろう。
彼らはすでに夢を掴み、全国を飛び回りながらレースで活躍していました。
観客の大声援を背に、スポットライトを浴び、大金を稼いでいる。
その充実ぶりは、明らかに僕の生活とはかけ離れていました。
羨ましかった。
自分にしかできない仕事をして、同年代よりも圧倒的に稼ぎ、輝く彼らが羨ましくて仕方がなかった。
僕もそんな特別な存在になりたかった。
自分の価値を認めてもらえるような人間になりたかった。
でも、なれなかった。
頭では、ボートレーサーの夢を諦めたつもりでいました。
でも、心の中では悪魔が囁き続けるんです。
「あの時、もっと努力していれば、ボートレーサーになれたんじゃないか?」
「今からでも会社を辞めて挑戦したら、夢を掴めるかもしれない。」
その後悔の念が、鎖のように僕を縛り付け、どこへ行くにもつきまといました。
あれほど本気で頑張っていたからこそ、今の自分の惨めな現実をどうしても受け入れることができませんでした。
友達がレーサーとして活躍している姿を見るのも嫌でした。
彼らの輝かしい姿を目にするたび、自分と比較して惨めな気持ちになるからです。
そんな自分の性格の悪さにも、嫌気が差しました。
でも、どうすることもできない。
夢に裏切られたような虚しさと、現実の重さに押し潰されそうな日々が続いていきました。
そして、また別の日。
派遣の仕事というのは、誰でもできる仕事だと思い知らされる出来事があります。
上司に
「よしきくん、下の階の△△さんのところに書類持っていってー」
と言われました。
僕の働いている事業所は大きい自社ビルだったので
他の担当エリアは階が違うので、上司が忙しかったりしたらお使いを頼まれます。
「わかりましたー」
と言って、下の階に行きました。
そこは本部と言われていて、正社員の働く人たちが集まっている大きな部署でした。
大体、50人くらい常駐してます。
△△さんは何度か会ったことがあるので、すぐに見つけることができました
なので、書類を持って声を掛けると、
「あー、〇〇さん(上司)のところの派遣さんね。、それおいといて」
と軽く言われました。
何気ない「派遣さんね」の一言が胸に突き刺さりました。
自分がただの“役に立てばいい存在”としてしか見られていないことに気づいた瞬間、全身から力が抜けてしまったのです。
名前すら覚えてもらえない自分は、いったい何なんだろうか?
名前も覚える必要がないくらい自分は軽視されている。
お前は価値がない人間だ。と言われてるような気がしました。
いくら大きい会社で働いてるといっても、所詮は派遣であり。
使い捨ての人間にすぎないと実感しました。
そして、派遣をやめる決定打が起こります。
ある日、会社のホームページが不具合を起こし、社内がちょっとした騒動に包まれました。
問い合わせフォームが機能しなくなり、対応が滞ってしまったのです。上司は眉間にしわを寄せながら言いました。
「業者を呼ぶしかないな。」
僕は思わず口を挟んでしまいました。
「え、そんなことで業者呼ぶんですか?」
その言葉に上司は少し驚いた表情を見せましたが、特に気に留める様子もなくこう続けました。
「まあ、これは大事な問題だからな。対応を急ぐ必要がある。」
僕は心の中で「大手企業ってこういうところがあるよな」と呑気に思いながら、何気なく尋ねました。
「これ直すのに、どれくらい費用かかるんですか?」
上司は腕を組んで少し考える素振りを見せた後、さらっと言いました。
「まあ、数十万円ってところかな。」
「え、高っ!」
思わず声を上げました。数十万円もかかるなんて聞いて、驚きと同時に興味が湧きました。
「ホームページってそんなに儲かる仕事なんだな。何をどう修理するんだろう?」と。
その日の夜、自宅に帰った僕は早速調べてみました。キーワードをいくつか入力して検索を進めると、驚くべき事実が分かりました。
そのホームページはWordPressというシステムで作られており、簡単にカスタマイズできる仕組みだったのです。
「え、これ自分でもできるんじゃない?」
僕の頭の中に閃きが走りました。「これなら数十万円も払う必要なんてないだろう。俺が直せば上司にめちゃくちゃ喜ばれるんじゃないか?」と考えました。
次の日、意気揚々と上司に話を持ちかけました。
「このWordPressの仕組みを調べたんですが、自分で修理できるかもしれません。」
上司は少し驚きつつも興味を示し、顔を明るくして言いました。
「ほう、いいじゃん。ちょっとその案、上に掛け合ってみるよ。」
その言葉を聞いて、僕の胸は期待で膨らみました。「これは昇進のチャンスかも!」と心の中でガッツポーズをしたのを覚えています。
しかし、それから1週間後。渋い顔をした上司が僕のデスクにやってきました。その表情を見ただけで、嫌な予感がしました。
「よしき君、ごめん。上の許可が降りなかったわ。」
「え、なんでですか?」
僕は即座に聞き返しました。
数十万円のコストを節約できる提案がなぜ却下されたのか、全く理解できませんでした。上司は申し訳なさそうに肩をすくめながら言いました。
「まあ、多分本社は派遣社員に任せるのはリスクがあるって思ったんだろうな。」
その瞬間、胸の奥に強い悔しさが込み上げてきました。
「俺が派遣だから信用されないのか……?」
会社にとって僕の存在は、ただの”派遣さん”でしかないのだという現実を突きつけられた瞬間でした。
名前を覚えられることもなく、意見が尊重されることもない。そんな自分が惨めで仕方ありませんでした。
「俺は社会に影響を与えるどころか、会社にすら必要とされていない。」
そんな思いが頭をぐるぐると巡り、どうしようもなく自分が小さな存在に感じられました。数日間、不貞腐れて落ち込みました。
しかし、その中でふと自分に問いかけました。
「自分の価値って何なんだ?」
そして、このままではダメだと強く思いました。
派遣社員として名前も覚えられず、信用も得られない現状を変えるためにはどうすればいいのか。
「もっと自分の価値を証明したい。そのためには、お金を稼ぐしかない。」
その日から僕の中で新たな決意が芽生えました。
”派遣さん”の立場に甘んじるのではなく、自分を必要とされる人間になるための行動を起こそうと。
結局、この出来事をきっかけに僕は派遣の仕事を辞める決意をしました。
そして新たな道を模索することにしたのです。
友達に誘われた会社で働く
その後、僕はいくつもの会社を転々としました。
営業職がほとんどでしたが、
どの仕事も長続きせず、中には1ヶ月で辞めてしまったものもありました。
働くたびに「ここじゃない」「これじゃない」という違和感ばかりが募り、
いつの間にか転職のプロみたいになっていました。
でも、その頃の僕は本当に必死でした。
心の中では「このままじゃダメだ。何とかしなきゃ」
という焦燥感が常に渦巻いていたのです。
ただ、ダンスのプロにもなれず、ボートレーサーの夢も破れた僕には、現状をどうやって変えればいいのか全くわかりませんでした。
進むべき道が見えないまま、ただ悶々とした日々を過ごしていました。
そんなある日、24歳の頃のこと。友達から「うちの会社で働いてみないか?」と誘われました。IT系の会社で、仕事内容は営業職です。
「まあ、友達の紹介なら安心だし、ちょっとやってみるか。」
そう思って話を聞いてみると、その会社には驚きの条件がありました。
「週6日出勤が基本だよ。」
「は? 週に1回しか休みがないの? ブラックすぎるだろ!」
心の中で叫びましたが、友達の顔を見ていると、断るのも気が引けてしまいました。
結局、「まあ、友達の会社だし、試しにやってみよう」と入社を決意しました。
実際に働いてみると、営業の仕事はやっぱり大変でした。
でも、仲の良い友達と一緒に働けたおかげで、それほど苦には感じませんでした。
一緒に飲みに行ったり、仕事の熱い話をしたり、和歌山に日帰り旅行に行ったりと、仕事以外でも楽しい時間を過ごしました。
この時期に築いた友情は、今でも僕の宝物です。
しかし、やはり友達がいるからといって、すべてがうまくいくわけではありませんでした。
僕は所詮、一社員に過ぎません。
でも友達は会社の社長。立場も待遇も、何もかもが違いました。
友達は好きな時間に出社し、好きな時間に帰る自由な生活を送っています。給料だって、僕の何倍ももらっている。
「羨ましいな…」
そう思わずにはいられませんでした。でも同時に、ふと思ったのです。
「待てよ。同い年のアイツが社長をやっているなら、俺だって起業できるんじゃないか?」
その考えが頭をよぎった瞬間、僕の中に新たな希望が生まれました。
ただ、現実はそう甘くありませんでした。
友達の会社で扱っている商材は、専門的な技術が必要なものばかり。
僕一人で同じようなビジネスを始めるのは到底無理だと、すぐに気づきました。
「でも、もし他の業種ならどうだろう…?」
そう思った僕は、仕事の合間を見つけては起業について調べるようになりました。
通勤時間も昼休みも、スマホで検索を繰り返しました。
「成功する起業アイデア」
「初心者でも始められるビジネス」
「低コストで始める副業」
検索履歴はそんなキーワードで埋め尽くされていました。
何か自分にもできることがあるはずだ。そう信じて、少しずつですが行動を始めたのです。
この小さな一歩が、僕の新たな挑戦への始まりでした。
年収1億円?怪しいwebビジネスの世界を知る
そんなある日、家のベッドに寝転がりながら、何気なくスマホをいじっていた時のことです。
「webビジネス」という見慣れない単語に出会いました。
興味本位で開いたリンクの先には、20歳の慶應大学生が「不労所得で月500万円稼いでいる」というブログが。
初めてその内容を目にした時の感想は、ただ一言――
「うさんくさすぎる……。」
20歳そこそこの大学生が月に500万円?
しかも不労所得で?
「そんなの、稼げるわけないだろ」と、全く信じることができませんでした。
僕の中の常識では、どんなに稼げる仕事でも、努力や時間を投じなければ不可能です。
ましてや、ボートレーサーの世界でさえ月500万円を稼ぐのは一握りのエリートだけ。
それを、普通の大学生が――しかも、働かずに――達成できるなんて、到底理解できませんでした。
「意味がわからない……。」
そんなふうに疑いながらも、心のどこかで思ったんです。
「もしこれが本当だったら……すごいよな」
僕の中で「働く」とは、汗を流し、時間を費やすことでお金を得る行為でした。
働けば働くほど収入が増える反面、働かなければ何も得られない。
それが当然の価値観でした。
実際、僕の周りの友人で成功している人たち――特に社長をしている友人たちも――忙しそうに働いています。
見た目は自由そうに見えても、きっと社員には見えないストレスや苦労を抱えているのでしょう。
ところが、ブログや動画の中のその慶應大学生は違いました。
「毎日遊んでる」「超絶暇」と語る彼は、まるで別世界の住人のよう。
さらにこう続けるのです。
「月収100万円なんて余裕だよ」
「年収1億までは、人の真似をしていれば誰でもいける」
……年収1億?
超有名企業の社長クラスの年収じゃないか。
「それを誰でも、簡単に稼げるって?」
画面越しに語るその言葉に、僕は呆然としました。
心の中では「嘘だ」「そんなの信じられない」と否定する気持ちが強くありました。
でも同時に、どこかで「もしこれが本当だったら……」という可能性に惹かれている自分もいました。
疑念と好奇心が入り混じった奇妙な感情に、心が揺さぶられていきました。
その人がブログや動画で語る生活は、まるで夢のようでした。
– 朝起きても会社に行く必要はなく、ベッドの上でゴロゴロしていてもお金が入ってくる。
– レストランで値段を気にせず好きなだけ頼める。
– 好きな時に旅行し、1週間帰らないこともあるが、財布を気にする必要は全くない。
– ちょっとした仕事で1000万円を儲けることもザラにある。
– ビジネスを通じて人脈が増え、美女とも付き合えるようになった。
– 女性から尊敬され、モテる。
– タクシー移動だから移動のストレスはゼロ。
– 売り上げの上げ方を知っているので、企業にアドバイスするだけで報酬がもらえる。
– 毎日使いきれないお金が入ってくるので、自然と貯金も増える。
– 顔出しせずに億単位の収益を上げる。
– 毎日「感謝しています」というメールが届く。
そんな人生が、彼にはあるというのです。
しかも、それは「誰にでもできる」と言い切っていました。
過去の経歴や特別なスキル、人脈すら必要ない、と。
これを聞いた瞬間、僕は電撃を受けたような気持ちになりました。
「これこそ俺が求めていたビジネスだ!」と直感しました。
しかし、すべてを学ぶには、その人が販売している教材を購入しなければなりません。
その価格は5万円――当時の僕にとっては決して安い買い物ではありませんでした。
「ネットで顔も知らない相手に5万円を払うなんて……詐欺じゃないのか?」
「もし稼げなかったらどうする?ただお金を失うだけだぞ。」
そんな疑念が次々に頭をよぎりました。
5万円なんて大金を、こんな怪しい情報に投資するなんて、正気の沙汰ではないと自分に言い聞かせました。
でも、一方で心の中ではこうも思っていたのです。
「詐欺だとしても、最悪5万円ならバイトすれば取り戻せる。」
「挑戦して失うのは怖いけど、それ以上に、何もせずにこの現状を続ける方がもっと怖い。」
その考えが背中を押しました。
結局、内心はビクビクしながらも、半ば勢いで決済ボタンを押しました。
その瞬間、胸が高鳴るのを感じました。
「これで俺も変われる!あとはやるだけだ!」
そう自分に言い聞かせ、やる気に満ちた状態でビジネスに挑む準備を始めました。
手元に届いた教材を開いた瞬間、僕は驚きました。
中身がとても面白く、思わず一気に読み進めてしまったのです。
教材の内容は、ビジネスを「仕組み化」して稼ぐ方法について解説したものでした。
– どうやって自動でお金を稼ぐのか?
– 商売とは何なのか?
– リアルビジネスに仕組み化を活用する方法とは?
これまで「お金を稼ぐのは才能のある人だけ」と思っていた僕の常識は、完全に覆されました。
365日遊んでいても稼ぎ続けるには、才能ではなく「仕組み」が必要だという事実を知ったのです。
しかし、ひとつ大きな問題がありました。
その教材では「具体的に何をすればいいのか」が、いまいち分からなかったのです。
「もっと具体的な方法を学ばなければ!」
そう思った僕は、さらにいろいろなノウハウを集め始めました。
しかし、それが新たな迷走の始まりでもありました。
こうして僕の「ノウハウコレクター時代」が幕を開けたのです――成功とは程遠い、挫折の連続の日々が。
挫折につぐ挫折のノウハウコレクター時代
webビジネスに挑戦しようと意気込んだものの、いきなり「仕組み化」を目指すのはハードルが高すぎると感じた僕は、他の方法にも手を広げることにしました。
物販ビジネス、アフィリエイト、ブログアドセンス、YouTubeアドセンス、メルカリ転売、情報発信ビジネス、、、
思いつく限りのビジネスに次々と手を出していきました。
いわゆる「ノウハウコレクター」という言葉がありますが、僕はまさにその典型でした。
結果はどうだったのかというと、ほとんどが失敗に終わりました。
順番にお話ししていくと、、、
まずは「物販ビジネスが熱い!」という情報を目にし、中国ビジネスのスクールに通い始めました。
しかし、当時お金がなかった僕は、20万円のローンを組んで参加することに。
「中国は物価が安いから、日本で売れば7割の利益が取れる。めっちゃ儲かるよ!」
そんな謳い文句に心を踊らせ、期待に胸を膨らませながら実践を開始しました。
ハロウィンが近かったので、ノウハウ通りにコスプレグッズをリサーチし、中国から10万円分の商品を仕入れました。
ウキウキしながら出品作業を進め、「これで俺も金持ちだ!」と鼻息荒く待ち構えていました。
しかし、結果は――全く売れず。
スクールのノウハウ自体は優れていたかもしれませんが、参加者が多すぎて競争が激化し、ノウハウが陳腐化していたのです。
僕が参加する頃には、すでに稼ぐのが難しい状況になっていました。
最終的に物販ビジネスは諦めることに。
残ったのは20万円のローンと、よく分からない中国製のコスプレグッズの山だけでした。
仕方なく、コスプレグッズをメルカリで売りさばこうとしましたが、雀の涙ほどの売り上げしか出ず、肩を落としました。
次にブログアドセンスビジネスに手を出しました。
当時流行していたこの手法に、僕は次なる可能性を見出したからです。
WordPressでブログを立ち上げ、クリック型広告で収益を得る。
「顔出しせず、文章だけでお金を稼ぐなんて、なんだかカッコいいじゃないか。」
そう思い立ち、さっそく取り組み始めました。
1年間で300記事近くを書き上げました。
仕事が終わればすぐにPCに向かい、遊びも飲み会も全て断って、ひたすら記事を書き続ける日々。
その努力が実り、アクセスも徐々に集まり始めました。
月に15万円を稼ぐことができた時もありました。
「これが成功と言えるのかもしれない……」
そう感じた瞬間も確かにありました。
しかし、次第に「これをずっと続けるのは無理だ」と感じるようになりました。
ブログで稼ぐためには、自分の興味のあるテーマだけを書くわけにはいきません。
アクセスを稼げるテーマを選び、それに沿った記事を書き続ける必要があります。
「毎日記事を書き続けなければ収益が止まる」という現実も重くのしかかりました。
平日は20時に仕事から帰宅し、ご飯とお風呂を済ませて21時から記事執筆開始。
深夜2時まで書き続けて就寝し、翌朝8時には再び出勤――このサイクルを繰り返す日々。
これでようやく月15万円。
「365日遊んで暮らせる生活」を夢見ていた僕にとって、この現実はあまりにも遠いものでした。
お金は確かに稼げるかもしれません。
でも、そのために記事を書き続けることが、次第に精神的な負担となり、苦痛に感じ始めました。
僕が目指していたのは、自分が稼働せずとも収益が上がる仕組みを作り、自由に暮らすことでした。
しかし、実際には「労働」から抜け出せない状態に陥っていました。
「これじゃダメだ……こんなやり方では、憧れた未来を手に入れることはできない。」
そう悟った時、ブログ運営を諦める決断をしました。
今になって考えれば、記事執筆を他の人に任せる仕組みを作り、自分が直接動かなくても収益が生まれる環境を整えるべきでした。
でも当時の僕には、そんな発想はありませんでした。
目の前の労働に追われながら、稼ぐための手段を模索する日々。
その先に待っていたのは、諦めという選択肢だけでした。
ブログ運営も、またしても挫折に終わる挑戦の一つとなったのです。
次に手を出したのは、Twitterを使ったアフィリエイト、いわゆる情報発信ビジネスです。
この時、現在の「よしき」というキャラクターを初めて作り上げました。
とはいえ、それまでのTwitterの使い方といえば、個人アカウントで愚痴をツイートする程度。
何から始めればいいのか全く分からない状態でした。
「とにかく学ばなきゃ!」という一心で、またしても教材を購入。
その金額、なんと50万円――もちろん、今回もローンです。
今思えば、ローンを組みすぎて正気の沙汰ではなかったと思います。
でも当時の僕は必死でした。
「絶対に成功してやる!」「これまでの失敗を取り返して、お金を稼がなければ!」
そんな焦燥感に突き動かされていました。
購入した教材の内容は、Twitterとメルマガを使ったコンテンツ販売のノウハウでした。
確かに内容自体は悪くなかったのかもしれませんが、問題はその具体性に欠ける点でした。
抽象的な説明が多く、「実際に何をすればいいのか」が見えてこない。
さらに、周りに情報発信ビジネスをしている知り合いもいなかったため、相談できる相手がいない孤独な状況。
何とか自力で進めようと半年間試行錯誤しましたが、結果は――1円も稼ぐことができず。
残ったのは、50万円のローンと、ゼロになった貯金だけでした。
お金が尽きた日々は、まさに地獄でした。
とにかく節約しなければならず、卵かけご飯で3日間しのぐのが当たり前。
「卵が買えるだけマシじゃん」と思われるかもしれませんが、小学生の頃にはふぐや焼肉に連れて行かれていた自分にとって、この生活は信じられないほどの落差でした。
それまで「節約」などしたことがなかった僕には、食費を切り詰める生活がただ辛く感じられました。
しかも、ビジネスでの連続した失敗が精神的にも追い打ちをかけていました。
もはや絶望というよりも、「諦め」に近い感情が心を支配していました。
「俺には才能がないのかもしれない……」
中学時代から積み重ねてきた挫折の記憶が頭をよぎります。
「お金持ちの人生なんて、もう無理だろう。」
「会社員として地味に生きて、小さな幸せを見つけていくのも悪くないのかもしれない。」
そう自分に言い聞かせるようにして、諦めの境地へと自分を追い込んでいきました。
かつて「自分の価値を証明したい」と必死になっていた自分は、もうそこにはいませんでした。
残ったのは、夢や目標を放棄し、ただ人生を受け入れるだけの、無気力な自分。
それでも、どこかで声が囁いていました。
「このままでいいのか?」
「諦めることが、本当に自分の幸せなのか?」
でも、その声に応える余力は、もう僕には残っていませんでした。
希望の火はほとんど消えかかっていたのです。
人生を変えるコンサルタントとの出会い
全てに見切りをつけかけていた僕が、運命を変える出会いを果たしたのは、その頃のことです。
その人こそ、今のビジネスの師匠であるKさん。
月収300万円を稼ぎ、ビジネスを仕組み化して自分が働かなくても収益が上がる生活を実現している起業家。
しかも、高卒という僕と同じ学歴から成功を掴んだという話を知り、親近感を覚えたのをよく覚えています。
「これが俺の理想だ……」
Kさんの生き方は、まさに僕が目指していた姿そのものでした。
しかし、Kさんの存在を知った時の僕の心境は複雑でした。
「すごいなぁ。でも、俺には無理だなぁ……。」
「この人も高卒らしいけど、俺と違って才能があったんだろうな。」
そんな風に思わずにはいられませんでした。
連続する挫折の中で、僕の自信や自尊心はすでにボロボロに折れていたのです。
だから、その時の僕にとってKさんは「すごい人」であり、ただ遠くから眺めるだけの存在でした。
それから何ヶ月か経った頃、Kさんのメルマガが届きました。
タイトルは「僕が80歳になった時に後悔していること」。
内容をすべて覚えているわけではありませんが、Kさんが80歳になった時に「もしこうしていればよかった」と後悔しているかもしれないことを赤裸々に綴ったものでした。
その文章を読んだ瞬間、僕の胸にある感情が湧き上がりました。
「あぁ、俺も80歳になった時に、絶対後悔しているだろうな……」
お金を稼ぎたい、自分の価値を証明したい――そう思ってビジネスを始めたのに、結局何一つ結果を出せず、全てを諦めてしまった自分を、未来の自分は決して許してくれないだろうと感じました。
そしてそのメールの最後にKさんはこう書いていました。
「ビジネスで悩んでいる人は、ぜひ相談してください。」
無料で相談に乗ってくれるなんて、こんなチャンスは二度とないかもしれない。
でも、同時に不安もありました。
「相談したところで、才能がないって言われたらどうしよう……」
「俺には向いていないと突きつけられたら、立ち直れなくなるかもしれない。」
希望がほとんど残っていない状態で、そんな言葉を聞くのは耐えられないと思いました。
それでも、ウジウジしていても仕方がない。
無料なのだから、ダメ元で相談だけしてみようと決心しました。
自分の現状や不安も正直に話してみることにしました。
そしてKさんとのスカイプ通話が実現。
実際に話したKさんは、堂々とした話し方で自信に満ち溢れていました。
それでいて、話し方は優しく、気さくに接してくれました。
一方の僕はというと、精神的に追い詰められていたので、か細い声しか出せなかったと思います。
それでもKさんは、終始優しく耳を傾けてくれました。
僕はこれまでのビジネス経験をすべて正直に話しました。
「たくさん挑戦してきたけど結果が出せなかった。」
「もう自分には無理かもしれない。」
そう語る僕の話を、Kさんは30分間じっくり聞いてくれました。
プライドなんて捨て去り、全てをさらけ出しました。
そしてKさんは、僕の話を聞き終えた後にこう言ってくれたのです。
「よしきさん、ブログアドセンスで月15万円稼げたことがあるんですよね?
それだけでもすごいことですよ。だから、稼ぐ力は絶対にあります。
ポテンシャルは十分にある。だから一緒に頑張りましょう。」
その言葉を聞いた瞬間、目頭が熱くなりました。
まだ僕の可能性を信じてくれる人がいる――その事実が、本当に嬉しかったのです。
「もう一度やってみよう。」
そう決意しました。
「これでダメだったら、今度こそ本当に諦めよう。」
そう覚悟を決め、Kさんのコンサルを受けることにしました。
ここから、僕の人生は再び動き始めたのです。
結論から言うと、コンサルを受けてめちゃくちゃよかったです。
Kさんのコンサルを受けて、僕が一番感動したのは、その「圧倒的な問題解決能力」でした。
僕が何日も悩んでいたことが、Kさんとの通話ではたったの2分で解決する――そんな経験が何度もあったのです。
具体的には、僕が書いたブログの記事をKさんに見てもらい、アドバイスをもらいます。
そのアドバイスに従い記事を修正する。
これを繰り返すうちに、自分の悪い部分が次々と改善されていきました。
結果的に、僕が進むべき道筋がはっきりと見えるようになり、確実に正解に向かって歩みを進められるようになったのです。
コンサルを受ける前の僕は、とにかく手探りの日々でした。
悩み、実践し、その方法が正しいのかどうかを確認する。
もちろん試行錯誤は大事です。
しかし、1週間悩んでいたら、その1週間は進展のないまま終わることになります。
結果的にその時間は無駄になってしまうのです。
Kさんの助けを借りれば、本来1週間、1ヶ月、あるいは1年かけて解決しなければならない問題が、たった数分で解消されます。
「もしこの問題が一生解決できなかったら……?」
そう考えると、これまで自分がどれほど恐ろしいリスクを背負いながらビジネスに取り組んでいたのかに気づかされました。
以前の僕は、コンサルに対して完全に誤解していました。
「コンサルってアドバイスをもらえるだけでしょ?
手元に残る教材の方がコスパがいいじゃん。」
そう思い込んでいたのです。
ノウハウコレクターとして教材には惜しみなくお金を払う一方で、コンサルは「高額で意味が分からないもの」として敬遠していました。
しかし、Kさんのコンサルを受けて、その価値を痛感しました。
教材は確かに役立ちます。
しかし、教材の通りに実践しても、自分の進んでいる道が正しいかどうかは分かりません。
もし自分のやり方が少しでも間違っていたら、いくら努力しても結果は出ません。
例えば、北海道に行きたいと思っていても、沖縄行きの飛行機に乗ってしまったら目的地にはたどり着けないのと同じです。
どれだけ速いエンジンを手に入れても、方向を間違えれば全てが無駄になります。
僕はまさにその状態に陥っていました。
努力をしても、進む方向が間違っているために結果を出せない――これが、これまでの挫折の本当の原因だったのです。
Kさんのコンサルを受けて僕が手に入れたのは、「爆速で進むエンジン」と「道を間違えないナビ」の両方でした。
そのおかげで、これまで迷い続けていたビジネスの世界で、成功への近道を歩み始めることができたのです。
Kさんとの出会いは、僕の人生を大きく変えました。
問題解決のスピード感、正しい方向への導き――それらを得たことで、これまでとは全く違う景色が見えるようになりました。
「成功までの近道」は確かに存在する。
Kさんのサポートを受ける中で、それを実感する日々が始まったのです。
僕の人生は、ここから大きく好転していきます。
ココナラで300万円稼ぐ
Kさんのコンサルを受けながらビジネスを進めて約1年が経った頃、僕は「ココナラ」というスキルプラットフォームの存在を知りました。
「どうやらココナラで稼いでいる人がいるらしい。」
そんな噂を耳にし、早速調べてみると、ココナラは自分の体験や知識を販売できる場だということが分かりました。
「ほう、これなら自分にもできそうだな。」
そう思い立ち、迷うことなく挑戦を始めました。
ココナラで商品を出品してから1週間も経たないうちに、約2万円の収益が上がりました。
その時の衝撃は、今でも忘れられません。
「こんなに早く結果が出せるなんて……!」
これまでの挑戦では、失敗の連続で報われることがほとんどなかった僕にとって、この成果は大きな転機でした。
しかも、売れた商品は、過去にブログアドセンスで稼いだ経験を活かしたものでした。
挫折ばかりだった日々の努力が、ここにきてようやく報われた瞬間でもありました。
「これは勝てる!」
そう確信した僕は、ココナラに本気で取り組むことを決意しました。
最初は5,000円の商品を販売していましたが、徐々に単価を上げていき、10万円、20万円、果ては100万円の商品を販売できるようになりました。
結果として、1年でココナラだけで300万円以上を稼ぐことに成功しました。
数十万円単位のお金が初めて口座に振り込まれた時、正直、信じられませんでした。
「これ……大丈夫か?俺、何か悪いことしてないよな?」
これまでそんな大金を稼いだ経験がなかった僕は、謎の不安に襲われ、ビビりまくっていました。
しかし、10万円、20万円、50万円の商品が次々と売れるようになると、次第にその感覚にも慣れていきました。
いつの間にか、お金が口座に振り込まれるのが「当たり前」と感じるようになり、以前のように毎日口座残高を確認することもなくなりました。
お金を稼ぐ実力を身につけたことで、自信も取り戻しました。
派遣社員時代、「派遣さん」としか呼ばれなかった僕が、今ではビジネスのアドバイスを求められる立場になったのです。
顔も知らない人から「お金を払って学ばせてほしい」という連絡が届くようになり、さらには法人の会社からも高額な契約を依頼されるようになりました。
リピーターも増え、「あなたの商品のおかげで成果が出た」と言って再度お金を払ってくれる人も現れました。
成功に味を占めた僕は、ビジネスをさらに拡大させました。
ネットを活用して組織化を進め、自分で人を雇うようにもなりました。
「ただの派遣さんだった自分が、こんなにも成長できるなんて……。」
かつては借金まみれのノウハウコレクターで、自分には価値がないと感じていた僕。
しかし今では、人から必要とされ、お金をいただける存在へと変わることができました。
もちろんお金を稼げることは嬉しいです。
でも、それ以上に「自分が人に必要とされている」「自分の価値を認めてもらえている」という実感が、何よりも僕を満たしてくれました。
こうして、僕の人生は大きく変わったのです――挫折ばかりだった過去が、成功の土台へと変わった瞬間でした。
ビジネスで稼げるようになり、会社員の給料では到底叶わなかった金額を手にしたことで、僕の人生から金銭的なストレスが消えました。
買い物に行く時、値段を気にせず欲しいものを買えるようになりました。
服を選ぶ際、「高いから諦める」という消極的な理由で妥協することが減りました。
家族や恋人の記念日には、高級レストランで特別なご飯をご馳走できるようになりました。
飲み会も「予算を気にしてセーブしなきゃ」と思うことなく楽しめるようになりました。
以前の僕は、ローン地獄の中で1円でも安いものを探し、スーパーをさまよっていました。
「これが欲しい」「これを食べたい」という気持ちではなく、「安いからこれで我慢しよう」という選択を迫られる日々。
お金が減っていくことが怖くて仕方がありませんでした。
「もし無駄遣いをしてお金が尽きたらどうしよう。」
「ローンの支払いができなくなったらどうしよう。」
そんな不安が心の中に居座り続けていました。
しかし今では、「お金を使っても、また稼げばいい」と思えるようになり、お金を使うことへのストレスから解放されました。
お金の心配をしなくて済むことで、新しいことにも気軽に挑戦できるようになりました。
例えば未経験ですが、昔から興味のあったテニスを習い始めたいと思っています。
以前は「ラケット代だけで数万円?無理だ」と諦めていましたが、今ではそのハードルを超えられるようになりました。
モテる身体を手に入れたいと、月2万円のパーソナルジムに通ったこともあります。
そのおかげで健康的に痩せ、正しい筋トレの方法も学びました。
以前は「ジムに行くなんてお金の無駄」と考え、自宅での筋トレで済ませていましたが、それでは得られなかった効果を実感しています。
尊敬する経営者が開催するオフ会に、気軽に参加できるようになったのも大きな変化です。
大阪に住んでいる僕にとって、東京で行われるオフ会への参加は3万円以上の交通費がネックでしたが、今ではその金額を気にすることなく足を運べます。
最も大きな変化は、「会社に依存しなくてもいい」という心の余裕を手に入れたことです。
以前、有給休暇があっても使えませんでした。
友達が経営している会社だったため、「有給を使って嫌われたらどうしよう」と考えてしまい、実際には申請する勇気が出なかったのです。
しかし今では、「有給を使ってクビになっても構わない」と思えるようになりました。
それは、会社を辞めても生きていけるだけの収入をビジネスで得られる自信があるからです。
お金があることで、人生の選択を自分のやりたいこと基準で決められるようになりました。
これほど幸せなことはありません。
振り返れば、中学時代から挫折ばかりの人生でした。
受験に失敗し、プロダンサーを諦め、ボートレーサーの夢も叶わず、ビジネスでも何度も挫折を繰り返しました。
15年近く、成功とは程遠い人生を歩んできました。
しかし、ようやくお金を稼ぎ、自信を取り戻し、自由を手にするところまでたどり着きました。
とはいえ、まだ僕の最終目標は達成されていません。
「お金」と「時間」の両方を手に入れる――その目標に向けて、僕はこれからさらにビジネスを拡大させていきます。
これまでの挑戦は、すべて次のステージに向かうための土台だったのだと実感しています。
だからこそ、僕はこれからも挑戦を続けていきます。
「人生を自分の力で切り開く。」
それを成し遂げる日まで。
最後に
僕の長い物語を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
この物語からお伝えしたかったのは、僕が順風満帆で成功を掴んだわけではなく、何度も何度も挫折を繰り返し、その先に成功があったということです。
ここまで呼んでもらったあなたはわかると思いますが、僕は決して特別な人間ではありません。むしろ人よりも劣っているでしょう。
ですが、普通の人間が普通の努力を積み重ね、結果を出すことができた――
ただそれだけの話です。
だからこそ、今あなたが挫折を重ね、自分の価値を見失い、人生を諦めそうになっているとしても、どうか安心してください。
正しい努力をすることで、お金は稼げるようになります。そして多くの問題はお金で解決できます。
それを僕自身が証明してきたし、これからも証明していきます。
「普通の人間も成功できる」という事実を、ぜひあなたに信じてほしいのです。
感想やご連絡、お待ちしています。
ここまで読んでいただき、改めて感謝いたします。
よしき
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